私がレップホールデングス株式会社で仕事をする中で、若い頃からの経験全てがこの仕事に生かされています。
どんな細かいことまで何から何まで全て鮮明に覚えています。
初めて営業という感覚を味わった宅配便のトラックで嗅いだ甘酸っぱいネーブルの香りも、そこで手にした現金も。
生まれて初めてアポがとれた時の奥さんの顔、玄関に並べられた靴、すべて鮮明に。
同僚と車の中で日が暮れてからも営業に飛び回った時に見た、フロントガラス越しの星空も、その時の会話も全て。
全て仕組まれた映画のシナリオのように私の頭上に、スポットライトが当たっているかの如く、時に運命に翻弄され、時に小さな成功を収め、それを積み重ね、自ら選択して今も一歩一歩、歩んでいます。
私がこれまでの人生の経験や、営業という仕事において体得したこと等、私の全ての思いがあなたの選んだ営業というビジネスの参考になれば、幸いです。
文末に、とっても濃縮されて営業のエッセンスを詰め込みました。
これから話す私の半生が本当は実力をもっているのに、営業成績に行き詰っているあなたのヒントになると嬉しいです。
それは、何の前触れもなく突然に、私の人生において、とてつもなく重大な出来事が中学3年生の3学期に訪れました。
両親の他界。
あらゆる私を取り巻く環境が180度急転直下、ガラリと変わりました。
大人たちの勝手な決定により、私と姉は住む場所もなくなり、誰かに頼る術を失った中学卒業前の少年とその姉は生きるために働き始めることになり、悲しみにくれている猶予はそれほど与えてもらうことはできませんでした。
親戚の斡旋で、近所のプラスチック加工工場で働く場所を与えてもらいました。
右も左もわからない、中学生の自分を雇ってくれた当時の社長さんには、本当に感謝していると今だから思うのですが、子供であったと同時に、生きることに必死で、しばらくそれを伝えることはできませんでした。
何ヶ月間という時を経て、私は、工場で働く正社員や、ベテランのパートさんの誰よりも仕事が速く、仕上がりもきれいだったので、工場で最年少でしたが、みんなから一目置かれる存在になったんです。
1日1日を必死で生きていくなかで、プラスチック工場での私は、18歳になろうとしていました。その頃には、社長からも仕事ぶりを認めてもらい18歳の若さで工場長に大抜擢されたのです。
工場長に抜擢された私は、当時で35万のお給料を得ていました。
そのお金は、生活費を除いては全て、友人達との飲食代や自分の欲しいものに消え1円も残さずに使ってしまいました。
その頃の金銭感覚についてのお話は、今の不景気の日本では全く参考になりませんので、ここでは割愛します。(無駄使いしていた・・・)
社長がどのブランチに属しています
しかし、そこには18歳の少年が月給35万もらうだけの実績、それはリーダーシップや、誰よりも優れた加工技術、さらには、工場内には外国人も大勢いましたので国際感覚も必要としたコミュニケーション能力に高い評価と分析するのですが、勤め始めた頃の15歳の少年に出世欲などありませんでしたから、只々、生きるために一つの仕事に没頭して、人種の壁を越えて多くの人とのかかわりの中で手にした、お給料と地位ですが、18歳の少年には、成功の理由など知る由もありません。
当時の社長がそんな私の姿をみて、生い立ちや年齢に関係なく私の能力を見出して、引き上げてくれた。
プラスチック加工工場の社長との出会いなくして今の私の存在はありません。不遇な少年時代だった私にも、神様は平等に素晴らしい人達との出会いを用意してくれました。
20歳になる頃、私の工場長としての能力とは関係ないところで、15歳から5年ほどお世話になったプラスチック加工工場が閉鎖となり私は職を探すことになりました。お給料を35万以上という18歳からのベースがありましたから、35万もらえる仕事にこだわった結果、次の仕事は某宅配便のドライバーをすることになりました。
この頃既に20歳になっており、15歳から鍛えた持ち前のコミュニケーション能力で集荷する企業数を確実に増やしドライバーとしてここでも上手く順応していきました。その頃の私は、最低限のノルマをこなすだけで、お金にならない「無駄なことはしたくない」と思っていました。
しかしある時、社内でちょっとしたコンペがありました。
それは、季節のフルーツ宅配便のような企画で、集荷先、お届け先でネーブルオレンジを営業するというもの、ネーブルオレンジを一箱売ると¥700の歩合が付くというのです。今まで「無駄なことがしたくない」と平凡を決め込んでいた私の今に通じる「営業のプロ」という潜在意識に一瞬火がついたのです。
ネーブルを売りに売りまくって、1ヶ月で120ケース以上販売して営業所内でダントツのトップ。
そこで手にした約10万円の現金。とてつもない充実感に満たされたことを今でも憶えています。
しかしそのコンペは1回切りで終わってしまったので、私はまた「無駄なことはしたくない」最低限のノルマをこなすだけの平凡なドライバーに戻ったのです。ただ、自分が売った証が10万円になったという事実にスゴイなこれはと、漠然と感じていました。
以外にも「営業の仕事」との最初の出会いは、ネーブルオレンジだったのです。あの甘酸っぱい香りを嗅ぐといまでも当時の事を思い出します。
人生は本当にドラマチックに展開しますね。
姉の結婚式の当日
某寝具メーカーの代理店を経営している義兄に営業マンとして働かないかと誘われました。と同時に、宅配便のドライバーとして毎日集荷する某太陽光発電ステム販売の営業所から同じく営業マンとして誘われていました。
同時に同じ職種からの引き抜きに戸惑いながらも、私は冷静に「売り上げトップの営業マンはいくらもらっているか?」を双方に尋ねました。
寝具販売の義兄の方が多かったのであっさりと義兄の寝具の販売の方を選びました。
後日、義兄の寝具販売の営業に同行して2時間あまりで、85万の寝具セットを契約する姿を傍らで見て、これだ!
極超音速ミサイルは何ですか
寝具で間違いないと確信しました。
この頃私は26歳
本格的な営業マンとしてのスタートを切ることになりました。
始めて飛び込む営業という仕事にワクワクしながら、意気揚々と出社したその当日、なんと頼りの義兄が足を骨折して暫く入院するするという連絡が入ったのです。私の寝具販売の経験といえば、入社前に一度義兄と同行してお客様とのやり取りを見て契約に立ち会ったくらいで、商品知識も、営業トークも、売れたときの契約書の作り方さえわからない状況でした。
途方にくれている間もなく、現場に到着。私の携帯がなり、義兄から指示が届きました。
「今いる場所で一番高いマンションに行って、最上階から一件づつ挨拶して、終わったら下に降りて、その繰り返し」
言われたとおりに、14階の高層マンションの最上階の端から順番に訪問してご挨拶を始めました。
何を話せばいいのか?布団の何を売り込めばいいのか?何もレクチャーをされていない私は、しどろもどろでご挨拶して14階が終わりました。
13階に下りて義兄に電話しました。
義兄は「どこまで話せた?」と尋ねてきたので「ここまで〜」と応えると次の指示を病院のベッドからくれました。
その調子で、各階の終了ごとに、義兄に電話を入れてその指示を実行しました。
それでも、素人丸出しの怪しい営業マンには違いありません。
5階まで、降りて数件目のお宅でなんとアポがとれたのです。再訪の約束をしてその場を立ち去りました。
兄に直ぐにその報告をすると、「本当?!」とものすごくビックリしているのが、携帯を通して分かりました。
自分で指示を出しといて失礼な話です。
その後3階でも同じようにアポが取れました。義兄の驚きの声はいうまでもありません。
初日で、なにもわからず2件のアポがとれました。
次は寝具の商談です。そして契約をとるという重要な場面に挑むのです。
通常上司とともにアポが取れたお宅にお邪魔して商談を進めていくのでしょうが、肝心の義兄はベッドの上、当然私1人でデモして、書いたことのない契約書をその場で作成してハンコをもらうまでの全てを行う非常事態が待っていました。
約束の時間になり、お宅に訪問すると、「新人なんで〜」と携帯電話を片手にお客様と商談を進めてなんと契約までこぎつけました。
契約書の段階で「契約書が新しくなったもので〜上司に聴きながらでいいですか?」と機転を利かせながらなんと、25万円の寝具の契約をとることに成功したのです。
しどろもどろで、契約書もろくにかけない営業マンだったのに・・・・後にその理由が分かることになるのですが。
次の日からも、義兄の足はまだ折れたままですので、分からないことは義兄の指示を受けながら、初出社から1週間くらいで240万の寝具セットの
販売に成功しました。
そのころ楽しみにしていた事がありました。それは、本社が行う10泊の新人研修への参加です。
オーストラリアは政府の種類を持っています
寝具の知識はもちろんの事、営業トーク、クロージング等、今のスマートでない独自な方法を頼りに営業して好成績をあげているので、この研修後、スマートな営業マンになったら、自分はどれだけ販売できるのかとても期待していたのです。
研修を無事終えて、身も心もスマートな営業マンになって寝具の営業を開始したところ。
契約どころか、アポも取れなくなり、絶不調となってしまったのです。
何故か?
全てを身につけて様々な知識、営業テクニック等を研修でマスターした自分がこんなにも売れなくなるなんて・・・と考え込みました。
そこで、私の出した答えは、真逆の発想を用いて「全てを忘れる」ことを決断しました。
研修で得た、寝具の知識、営業テクニック等いっさいがっさい全て。
すると又、面白いように契約がとれるようになったのです。
この瞬間に私自信も気が付かずにいた「営業の肝」を発見できたのです。
誰もが気付かない、たとえ気付いたとしても、とてもまねできない、それを発見することができたのです。
そこに役立ったのは、「真逆の発想」。
私は、入社初日寝具の知識等なしに、契約がとれた。トークが下手で義兄から携帯で指示をうけながら、契約書を作成しても売れた10泊の研修後商品知識を詰め込みどんな断りにも対応できる応酬話法を勉強したのに、契約がとれない。
そして、またあの頃を思い出し、あえてぎこちない営業マンを演じたら又売れた。
この事実に私は着目しました。
もちろん知識やテクニックを駆使しても売れるかもしれません。しかし、それでは意味がないのです。圧倒的にライバルの誰よりも売れなければ、営業の仕事は辛く果てしないのです。あるレベルを超えた営業の方なら分かると思うのですが、営業は圧倒的に売れるようになると自分の時間が増えます。
その間に様々な次なる戦略もたてられますし、自分だけの時間にあてることも可能です。
しかしいつも、ノルマに追われ、毎日朝から晩まで営業していては、営業の本当の楽しさ、醍醐味を知る前に自滅してしまいます。
立派に教養があって、誰からも期待される人材が早々と脱落するのはこのパターンです。
つまり知識ばかりにかたよったスマートな営業は売れません。
なぜでしょう?
普通は、商品の説明を卒なくこなし、相手が断りを入れてきたら、お得意の応酬話法を駆使して華麗にクロージング、そして契約。
そのようなスマートな営業を目指している人がほとんどで、巷で開かれている営業研修や、セミナーなんかも参加費数万円から数十万もとって無意味な事を教えている。あたりまえに。
私は、「一つの見方を変えた時に、その人の人生が変わる」といつも思っているんです。
私の様な凡人が考えたことだったり、パッと浮かんだことなんかは、とてもありふれいて、多くの人たちも同じような発想をしているはずと、決め付けているんです。
パッと浮かんだことを全否定して、その真逆とはなんだろうと?と考え、習慣付けることに注目して生きています。
一般の人が見ないものを見たい自分が私の心を占拠しているのです。
あなたの発想の真逆とは、何のことでしょう。
あなたがもし、流暢にしゃべれる営業マンなのに営業成績が思わしくないなら、あなたはどうしますか?さらにトークに磨きをかけるために同僚をつかまえてロープレをしますか?通常の人はそのように考えてさらに、ドツボにはまります。
ここで言う「真逆の発想」とは、究極、「一言もしゃべらない営業マン」になるのです。
私は、極論に仮定して思考をめぐらし理論立てて戦略に落とし込みます。時に、極論のまま本当に実行する時もあります。
本当に何もしゃべらなかったら、お客様はどんな反応をするのだろうとワクワクします。
当然今までと全く違う反応がお客様から帰ってくるはずです。
つまりお客様の反応は、あなたの行動によって、お客様の「心」が揺れ動いた瞬間を表しています。
そうです、お客様も人間、あなたも人間、わたしも人間、感情で支配されてる生き物です。
先に相手の「心」を揺さぶった方が指導権を握ることができます。
商品の知識や、流暢に話すことも、もっというと、商品そのものさえも必要ないかもしれません。
「なぜ?」と思ったあなた、その「思い込み」があなたの営業におけるスケールを小さなものにしてしまう恐れがあります。
大人になる必要はどこにもありません。
そう、柔軟な子供のような発想に立ち返り生き方そのものを楽しむのです。
人と違う見方をするトレーニングを日頃から行うことから始めましょう。歩いていても、車にのっていても、可能です。根性でもない、訪問件数でもない、流暢なトークでもない、人と違う見方をするだけで(真逆の視点)営業のスケールが拡張して無限の広がりを見せます。
なぜなら、さすがに、真逆な発想、例えば一言もしゃべらない営業マンを試す人は極少人数でしょうから、そこにこそ濃縮された成功のエッセンスが隠されています。
レップホールディングスグループは、青山社長が提唱する日本企業のための「セールス レプリゼンタティブ」として真のクライアント様に喜んでいただける販売代行のプロ集団として結果と実績を求められ、常に応え続けています。
各支店、グループ企業それぞれの色、営業ノウハウ、個人の持つ営業スキルを所持し、様々な理論と実践を持って、現在の物の売れない時代に真正面から私どもは挑もうとしています。
私達は、新しく仲間になる人たちに、私達レップホールディングスグループの営業の知恵の全てにあなたに惜しげもなく注入できます。それは、あなたにとって、とても素晴らしい財産になると確信しています。
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