帝国陸軍の鉄兜は本当にクロームモリブデン鋼だったのですか?
ttp://members.aol.com/shunpart3/helmet/helmet.htm
に90式鉄帽の写真と材質の解説が載っていますので参照してください。
日本軍の狙撃兵はすごかったのでしょうか?
日本の狙撃兵が特に凄かったかどうかは分かりませんが、南洋のジャングルという戦場であればスナイパーはかなり効果的であったのでしょう。
大戦中の陸軍の船舶について 伺いたいのです。
秋津丸 神州丸 弥彦丸など 船舶の利用がかなり盛んであるように見受けられます。
従来の図式では 陸は北進論 海は南進論でありシベリアや中国では 船舶はさほど使い勝手がよくないのではと思います。
陸で 船舶の利用を積極的に推進した方が居られるのか?それとも 島嶼での作戦や 上海など
沿岸部での作戦を想定しての装備ということで整備されたのか そこいら辺を御願いします。
「南船北馬」というように、中国の南部はクリークなど河川が多い。
しかも、長江、黄河、黒竜江といった大規模河川は駆逐艦くらいは平気で遡上できる。
(海軍の河川砲艦などが代表的だし、旧式駆逐艦すらそう言う大河には配備されていた。)
従って、必要は発明の母というように、陸軍ではまず平底船(小発、大発)が
実用化された。(一種の渡河・上陸機材ですね)
また、小河川、クリークでは戦車などの重火器が使えなかったので、上陸の
援護用に砲艇が実用化された。
しかし、それらを統括する船と、上陸戦という思想が海軍に無かった(そもそも
陸海軍の仲が悪かったのもあったのだが)ので、仕方なく秋津丸などの上陸用艦艇を開発した訳。
太平洋戦争が始まってからは、海軍は海軍の作戦(攻勢しか考えていなくて
防御的な側面はあまり重視されていなかった)を優先させたため、陸軍としては、守勢
に回った場合の上陸船団攻撃用の攻撃艇、島嶼守備隊の補給用の潜水艦を自力
で開発していかざるを得なかったのだと思うが…。
日本軍の近衛師団って他の師団とどう違うんですか。常設2個師団編成(?)だったそうですが皇居の警備にそんなに人数がいるんですか?
別に皇居の警備だけじゃなくて普通の師団同様の戦闘にも参加します
例:日露戦争の第一軍
戦時中に、近衛第1師団を新設したとき、旧来の近衛師団を近衛第2師団と改称した話を、
何か勘違いしているんじゃないのか?
昭和18年6月までは1個師団、20年5月までは2個師団だね。
でもって、5月以降は3個師団。
それは戦時に特設されたものであって、常設師団じゃないと思うけど?
そういう意味でいえば、常設は1個師団のみ。
ただ、日露戦争の記録を見ると3個旅団(第1、第2、後備)編成だったみたいですが。
「後備」というのは、予備役動員で戦時に臨時編成したものであって、これまた常設じゃないだろ
それに「旅団」だろ
日露戦争の頃は、1個師団は4個歩兵連隊基幹で、これを2個旅団に編制し、戦時には予備役主体の後備旅団を加える
近衛に限らず、他の師団も似たような編制
よく日本と戦った諸外国の兵士が口を揃えて言うのに、「日本兵は凄まじく強かった」って言いますが、強いと評判のナチスドイツ陸軍に勝てるでしょうか。
平均的兵士同士の素手の殺し合いなら、体格でドイツの勝ちでしょう。完全充足の同規模部隊の正面戦闘なら、装備でドイツの勝ちでしょう。
むしろ、どのような条件で比較すると日本が勝てるか、という話になると思います。
視界が悪く複雑な地形での遭遇戦ならば勝ち目があると思われ
日本軍 →委細構わず勢いに任せて全軍突撃
ドイツ軍→状況不明かつ不十分な態勢での交戦を嫌って戦術的後退
辻政信って人はどんな軍人だったんでしょうか?教えていただきたいのですが。
経歴は
士官学校事件に関与(士官候補生のスパイを用いて、皇道派を摘発)
「国境紛争処理要綱」要綱作成(ソ連領内への侵攻もやむなしとした、
強行的なドクトリンを決定、ノモンハンの引き金に)
ノモンハン事件(敗北した部隊長に自決を強要)
作戦失敗後、閑職に
小冊子「これさえ読めば戦に勝てる」作成
マレー作戦参加
在シンガポール華僑虐殺
ガダルカナル作戦参加
ポートモレスビー攻略を命令(大本営命令として、許可無く勝手に命令)
- 支那派遣軍第3課長
- 第33軍作戦主任参謀のち高級参謀
- 第39軍高級参謀
- 第18方面軍作戦課長
- 最終階級大佐
- 著書「ガダルカナル」「15対1」「潜行3000里」など
- 衆議院議員のち参議院議員
- 昭和36年、ラオスにて失踪
「下克上」の横行した昭和陸軍の暗部のような男です。一言で言い表せる人間ではありません、
参考になる書籍、サイト等は多々ありますので、これらのワードを元に
検索されることをおすすめします。
日本陸軍はなぜ兵士全員に自動車の運転技能を教えなかったのですか?
不要かつ高価だから。
陸軍で車両を運転する必要がある要員はそこまで多くなかったし、
取得させるには時間と金と機材が必要。
日本陸軍に戦車が登場したのはいつ頃
WWI終了直後の1918年に、英国から早速Mk.IVを一台輸入しています。
次いで、翌1919年には、同じく英国からホイペットA、仏国からはルノーFTを数台づつ輸入し、
部隊運用の研究を開始しています。
辻政信って官僚的な陸軍内でよく重大な事件に関わってたり行動したりしていますが、なんで重い左遷をされなかったんですか?
陸大の恩賜の軍刀組で出世が約束されてた。
そしてヒデキのお気に入りだったから。
統制派の人間にコビ売ってて、その辺の絡みから致命的な失策があっても助かっていた。
戦死後、階級が上がる特進制度は当時の日本陸軍にもあったのでしょうか?
戦死で2階級特進します。
終戦で特進するパターンって有りましたっけ?
必ずしも2階級特進とは限りませんよ。
普通は昇進しても1つ。滅多にないことだからこそ特進と断っているのです。
もちろん昇進しないこともあります。
男爵 滋野 清武大尉について教えてください
文藝春秋から「バロン滋野の生涯」という本が出てました。(今でもあるかな)
滋野氏は長州出身の維新の元勲だったかで男爵を賜りました。
愛する妻に死なれて、自殺をしようと外国を彷徨ったとき、一番危ない
飛行機に乗れば事故で死ねると考えた滋野男爵は、フランスのブレリオ飛行学校で飛行免状をとります。
ところが、飛行機の魅力に取り憑かれ、自分で飛行機を製作したりしてます。
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