帝国陸軍の鉄兜は本当にクロームモリブデン鋼だったのですか?
ttp://members.aol.com/shunpart3/helmet/helmet.htm
に90式鉄帽の写真と材質の解説が載っていますので参照してください。
日本軍の狙撃兵はすごかったのでしょうか?
日本の狙撃兵が特に凄かったかどうかは分かりませんが、南洋のジャングルという戦場であればスナイパーはかなり効果的であったのでしょう。
大戦中の陸軍の船舶について 伺いたいのです。
秋津丸 神州丸 弥彦丸など 船舶の利用がかなり盛んであるように見受けられます。
従来の図式では 陸は北進論 海は南進論でありシベリアや中国では 船舶はさほど使い勝手がよくないのではと思います。
陸で 船舶の利用を積極的に推進した方が居られるのか?それとも 島嶼での作戦や 上海など
沿岸部での作戦を想定しての装備ということで整備されたのか そこいら辺を御願いします。
「南船北馬」というように、中国の南部はクリークなど河川が多い。
しかも、長江、黄河、黒竜江といった大規模河川は駆逐艦くらいは平気で遡上できる。
(海軍の河川砲艦などが代表的だし、旧式駆逐艦すらそう言う大河には配備されていた。)
従って、必要は発明の母というように、陸軍ではまず平底船(小発、大発)が
実用化された。(一種の渡河・上陸機材ですね)
また、小河川、クリークでは戦車などの重火器が使えなかったので、上陸の
援護用に砲艇が実用化された。
しかし、それらを統括する船と、上陸戦という思想が海軍に無かった(そもそも
陸海軍の仲が悪かったのもあったのだが)ので、仕方なく秋津丸などの上陸用艦艇を開発した訳。
太平洋戦争が始まってからは、海軍は海軍の作戦(攻勢しか考えていなくて
防御的な側面はあまり重視されていなかった)を優先させたため、陸軍としては、守勢
に回った場合の上陸船団攻撃用の攻撃艇、島嶼守備隊の補給用の潜水艦を自力
で開発していかざるを得なかったのだと思うが…。
(8:名無しさん@眠い人 ◆ikaJHtf2)
日本軍の近衛師団って他の師団とどう違うんですか。常設2個師団編成(?)だったそうですが皇居の警備にそんなに人数がいるんですか?
別に皇居の警備だけじゃなくて普通の師団同様の戦闘にも参加します
例:日露戦争の第一軍
戦時中に、近衛第1師団を新設したとき、旧来の近衛師団を近衛第2師団と改称した話を、
何か勘違いしているんじゃないのか?
昭和18年6月までは1個師団、20年5月までは2個師団だね。
でもって、5月以降は3個師団。
それは戦時に特設されたものであって、常設師団じゃないと思うけど?
そういう意味でいえば、常設は1個師団のみ。
ただ、日露戦争の記録を見ると3個旅団(第1、第2、後備)編成だったみたいですが。
「後備」というのは、予備役動員で戦時に臨時編成したものであって、これまた常設じゃないだろ
それに「旅団」だろ
日露戦争の頃は、1個師団は4個歩兵連隊基幹で、これを2個旅団に編制し、戦時には予備役主体の後備旅団を加える
近衛に限らず、他の師団も似たような編制
よく日本と戦った諸外国の兵士が口を揃えて言うのに、「日本兵は凄まじく強かった」って言いますが、強いと評判のナチスドイツ陸軍に勝てるでしょうか。
平均的兵士同士の素手の殺し合いなら、体格でドイツの勝ちでしょう。完全充足の同規模部隊の正面戦闘なら、装備でドイツの勝ちでしょう。
むしろ、どのような条件で比較すると日本が勝てるか、という話になると思います。
視界が悪く複雑な地形での遭遇戦ならば勝ち目があると思われ
日本軍 →委細構わず勢いに任せて全軍突撃
ドイツ軍→状況不明かつ不十分な態勢での交戦を嫌って戦術的後退
辻政信って人はどんな軍人だったんでしょうか?教えていただきたいのですが。
経歴は
- 陸士36期恩賜、陸大43期恩賜
- 士官学校教官
士官学校事件に関与(士官候補生のスパイを用いて、皇道派を摘発)
「国境紛争処理要綱」要綱作成(ソ連領内への侵攻もやむなしとした、
強行的なドクトリンを決定、ノモンハンの引き金に)
ノモンハン事件(敗北した部隊長に自決を強要)
作戦失敗後、閑職に
小冊子「これさえ読めば戦に勝てる」作成
マレー作戦参加
在シンガポール華僑虐殺
- 参謀本部作戦班長
- 第17軍派遣参謀
ガダルカナル作戦参加
ポートモレスビー攻略を命令(大本営命令として、許可無く勝手に命令)
- 支那派遣軍第3課長
- 第33軍作戦主任参謀のち高級参謀
- 第39軍高級参謀
- 第18方面軍作戦課長
- 最終階級大佐
- 著書「ガダルカナル」「15対1」「潜行3000里」など
- 衆議院議員のち参議院議員
- 昭和36年、ラオスにて失踪
「下克上」の横行した昭和陸軍の暗部のような男です。一言で言い表せる人間ではありません、
参考になる書籍、サイト等は多々ありますので、これらのワードを元に
検索されることをおすすめします。
日本陸軍はなぜ兵士全員に自動車の運転技能を教えなかったのですか?
不要かつ高価だから。
陸軍で車両を運転する必要がある要員はそこまで多くなかったし、
取得させるには時間と金と機材が必要。
日本陸軍に戦車が登場したのはいつ頃
WWI終了直後の1918年に、英国から早速Mk.IVを一台輸入しています。
次いで、翌1919年には、同じく英国からホイペットA、仏国からはルノーFTを数台づつ輸入し、
部隊運用の研究を開始しています。
辻政信って官僚的な陸軍内でよく重大な事件に関わってたり行動したりしていますが、なんで重い左遷をされなかったんですか?
陸大の恩賜の軍刀組で出世が約束されてた。
そしてヒデキのお気に入りだったから。
統制派の人間にコビ売ってて、その辺の絡みから致命的な失策があっても助かっていた。
戦死後、階級が上がる特進制度は当時の日本陸軍にもあったのでしょうか?
戦死で2階級特進します。
終戦で特進するパターンって有りましたっけ?
(22:チェリーブロッサム ◆oGAFW6/A)
必ずしも2階級特進とは限りませんよ。
普通は昇進しても1つ。滅多にないことだからこそ特進と断っているのです。
もちろん昇進しないこともあります。
男爵 滋野 清武大尉について教えてください
文藝春秋から「バロン滋野の生涯」という本が出てました。(今でもあるかな)
滋野氏は長州出身の維新の元勲だったかで男爵を賜りました。
愛する妻に死なれて、自殺をしようと外国を彷徨ったとき、一番危ない
飛行機に乗れば事故で死ねると考えた滋野男爵は、フランスのブレリオ飛行学校で飛行免状をとります。
ところが、飛行機の魅力に取り憑かれ、自分で飛行機を製作したりしてます。
どのようにインカの都市が互いに通信するのですか?
帰国後、陸軍に一時奉職しましたが、徳川好敏との確執で軍を辞め、
第一次大戦勃発直前、フランスに再度渡り、大戦勃発後フランス軍に志願入隊。
最初はボアザン装備の偵察爆撃中隊に配属されますが、そこで数度の空戦の後、
戦闘機を撃墜する勲功をあげ、後に「こうのとり中隊」と言うエース部隊に配属され、教官も務めました。
彼の機体にはコウノトリならぬ、丹頂鶴が描かれ、妻の名を取った「わか鳥」
と言う名称で呼ばれていました。
彼もエースですが何機撃墜したかは覚えてません。
大戦後、フランス人女性と結婚し、民間航空に命を捧げますが、43歳で不帰の客となってしまいます。
(29:眠い人 ◆ikaJHtf2)
八甲田山死の彷徨てどの程度正確なのでしょうか
大量遭難を出した青森歩兵第五連隊は弘前第八師団第四旅団に所属していました。
具体的な編成は第二大隊(山口鋠少佐)傘下の四個中隊から40~45名を選抜し、
第五中隊長神成文吉大尉が率いたものです。
ただし、編成外として山口少佐以下九名が同行し、少佐が指揮に干渉したのが
遭難の間接的な一因と言われています。
一方の福島隊は弘前第三十一連隊第一大隊第二中隊(福島泰蔵大尉)所属の37名です。
「八甲田山死の彷徨」ですが、登場人物の名前を仮名にするなど小説的な
脚色がされていると思って間違いないです。
「われ、八甲田より生還す」「八甲田より還ってきた男」高木勉著 などの
反論本もありますが、「雪の八甲田で何が起こったのか」川口泰英著 北方新社
がこの事件に関しては最も良い本だと思います。
四個中隊から各40~45名を選抜した四個小隊+他の大隊から抽出した特別小隊と
山口少佐以下九名を含めた210名が青森隊の編成内容です。
また、高木勉氏の一連の著書を挙げましたが、彼は福島泰蔵大尉の縁故だとかで、
福島隊に偏った内容になっているようです。
双方を比べるのも一興かと。
日本には関東軍が余ってましたよね?
昭和15年度の対ソ戦予定兵力は陸軍の師団総数49個の内
34個師団を必須としていた。
しかし現実には27個師団は中国で戦っている罠
独ソ戦に呼応した対ソ戦計画である関東軍特種演習では
南進用の師団が更に引き抜かれ、わずか25個師団で作戦が計画された。
参謀本部もこれだけの兵力では極東ソ連軍32個師団に対して兵力が少なく
目標を達成できないとして「師団数が41年9月までに半減すれば武力発動」と
したがソ連軍は動かず計画は流産
ここまでは計画の話ですが、仮に強行発動したとして何が得られるでしょうか。
自信過剰の陸軍ですら二の足を踏む兵力不足。ドイツがモスクワを落とすかも未知数ですし、
(参本ロシア課すらドイツによるソ連占領は不可能、ソ連の徹底抗戦は必至と判断していました)、
アメリカもいかに動くやら。
仮にシベリアを手に入れても、地下資源は豊富かもしれませんが
開発には絶望的な時間がかかるでしょう。
寺内正毅の勲章について教えて下さい。
ざっと調べると、これだけの勲章を受章しています。
- 勲一等旭日大綬章 明治34年12月27日
- 勲一等旭日桐花大綬章 明治39年4月1日
- 功一級金鵄勲章 明治39年4月1日
- 大勲位菊花大綬章 大正8年11月3日
また、防長尚武館の写真もみましたが、内閣総理大臣や外務大臣・朝鮮総督といった要職に
ついた関係か外国からも多くの勲章を受賞しているようです。
旧日本軍の徴兵検査では肛門に指突っ込んで痔の検査をしたとの事ですが、痔の有無ってそんなに重要だったのでしょうか?
痔は治りにくいしひどくなると歩くこともできないくらいの苦痛になる。
兵隊は歩くのが仕事だし、戦場は痔持ちに優しい環境ではない。
戦場で行軍も戦闘もできなくなるような爆弾を抱えている人間はとらないってことだね。
ぐぐってみたら徳川の家臣の榊原康勝が、大阪夏の陣の直後に痔で死んでるそうだ。
戦場で痔が破れて鞍が血まみれになるまで馬に乗り続けたのが原因らしい。
砲工学校と陸軍野戦砲兵学校の違いについて
陸軍砲工学校の学生は砲科、工兵科の少尉で、砲工兵各科の勤務に必要な学術を教授する学校となります。
但し、時には中、大尉クラスを学生とすることがあります。
普通科の修学期間は1年ですが、このうち、各兵科毎に3分の1以内を選抜し、更に在学期間1年の高等科に進ませ、
更に枢要な学術を修めさせる様になります。
また、高等科卒業者或は憲兵科を除く尉官中、技術将校に適任な者を選び、員外学生として必須な学科を研究させ
ています。
その修業期間は高等科卒業者の場合、3年3ヶ月、歩・騎・航空・輜重兵科尉官の場合は、5年3ヶ月が通常になります。
員外学生は砲工学校で約3ヶ月乃至2年3ヶ月修学の後、帝国大学に派遣し、学術を更に研鑽させます。
また、幾人かは海外駐在員として外国留学させることがあります。
一方の陸軍野戦砲兵学校は、学生に射撃、戦術、観測通信、馭法並びに照空などを教授して、之を各隊に普及し、且つ
これら諸学術の研究を行う学校です。
学生は5種あります。
甲種学生は、砲兵科大尉が資格者で、主に射撃と戦術を学び、期間は7ヶ月。
乙種学生は、砲兵科大、中尉が資格者で、主に射撃法を学び、期間は5ヶ月。
観測通信学生は、砲兵科中、少尉が資格者で、主に通信観測術を学び、期間は6ヶ月。
馭法学生は、砲兵科中、少尉が有資格者で、主に馬術と馭法を学び、期間は11ヶ月。
高射砲学生は、砲兵科中、少尉が有資格者で、主に高射法に関する学術を学び、期間は5ヶ月。
即ち、前者は高等研究機関で、ほぼ全兵科から学生を募り、技術の検討を行う場。
後者は、砲兵の専門教育機関で、砲兵がその技術を磨く為の場になります。
旧陸軍の、背嚢・雑嚢の中身について、知りたいのですが、
武器や弾薬ではなく、一兵士・一軍人がそれぞれ国から支給された装備品です。
1941年9月の中国戦線でのある歩兵部隊の装備品の例
携行口糧 甲 4日分
携行口糧 乙 1日分
缶詰 3
食塩 1日分
干魚 1日分
梅干 1日分
被服・日用品
弾薬盒 前2、後1
弾薬実包 120発
鉄帽(ヘルメット)
防毒面
円匙(スコップ)
飯盒
水筒
地下足袋
その他に携帯天幕や外套を持つことも。
日用品は洗面具(歯ブラシ、かみそりなど)、裁縫道具、包帯包など。
太平洋戦争中の日本軍は弾は何発持てたんでしょうか?
歩兵は、腹と背中の弾薬盒に、銃弾を入れました。
それとは別に、背嚢に銃弾を入れました。
こちらは、そのときの作戦の都合によって変わりました。
「歩兵銃用の「弾薬盒」には「前盒(ぜんごう)」と「後盒(こうごう)」があります。
完全軍装の「歩兵」は、腰の「革帯」に「前盒」を2個と「後盒」を1個の計3個の「弾薬盒」を装着しました。
「弾薬盒」は、盒の裏側に付いている「革帯通し」に「革帯」を通して装着をします。
2個の「前盒」は「革帯」の尾錠の左右へ振り分けて装着し、「後盒」は後ろ側へ装着をしました。」
(616:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.)
ここで、砦ルイスであった
日本陸軍の「留守師団」というのはどの程度の(出征していった野戦師団の何分の1ぐらいの)戦力を持っていたのでしょうか?
動員下令の場合は、留守師団長以下、スタッフのごく僅かな要員のみで編成され、教育訓練とか戦地に出動した師団の人員補充を
担当するだけです。
臨時編成下令の場合は、師団兵力の3分の1が残留し、師団長が師団留守司令官を任命、これを指揮して留守隊の教育訓練や人員
補充を行います。
(但し、これは留守師団ではなく留守隊と呼ばれています)
太平洋戦争時に動員が為されると、留守師団を基幹に新たな師団を興しますが、その補充と従来の留守師団が担っていた人員補充
の為に、留守師団が編成されます。
これは歩兵連隊4個の4単位師団もしくは3個の3単位師団で編成され、編成はほぼ前線の師団と同じです。
但し、人員は平時編制当時の1万人で構成されています。
(360:268:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
旧日本陸軍における、「隷下」と「指揮下」の違いって何ですか?
「第十飛行師団は第一航空軍司令官の隷下、防衛総司令官の指揮下にあって・・・・・」と
戦史叢書で言われても、結局指揮官が誰なのかわかりません。
戦史叢書102「陸海軍年表 付 兵語・用語の解」から引用
指揮下・隷下
:指揮下とは一般的に指揮関係下にあることをいい、隷下とは固有の隷属関係にあることをいう。
指揮
:上級官庁が職権または要求により、下級官庁にその職務上の事項につき下す命令で、当該官庁内だけで効力を有するもの。
軍隊において上級者がその職権により任務遂行に際し、所要事項を命令し実行させ、また時々変化する情況に対処して任務遂行を可能容易にするため、下級者に対して指図する等上級者が行う一連の行為をいう。
隷属
:他の上級者に従いつくことで指揮監督の下に入ること。例えば軍令部総長に隷属する海軍諸機関、陸軍大臣に隷属する陸軍諸機関のように使用する。
私の祖父は戦争中河北省で独立警備大隊と言う部隊に所属していたそうなんですが、警備大隊と言うのは具体的に何をしていたんでしょうか?
基本的に現地の治安維持目的の軽装備な歩兵部隊と思っていれば問題ない。
正規軍相手でなく、馬賊や武装ゲリラを主に相手をするのが主目的。
文字通り占領地の警備をするための部隊で後方の拠点や鉄道などをゲリラ等から守ってました
治安師団(華北なら第114師団や第118師団 )から特設治安大隊までいろいろあるけど砲兵など敵の軍隊と殴りあうための部隊が
付属してないことが特徴。
二線級の部隊で人員も戦争が始まってから急遽動員された人たちが多かった。
たびたび正規戦闘に駆り出されることもあったので砲兵がつくこともありました。
第一線の部隊に比べてという意味で
(557:モッティ ◆uSDglizB3o)
独立警備隊とは昭和20年に中国で現地編成された部隊です(2月に7個、4月に6個)。
占領地の警備にあたっていた師団が米軍の上陸などに備えて転用された後を警備するために新設されました。
編成は司令部・独立警備歩兵大隊×6・独立警備作業隊×1
各独立警備歩兵大隊は大隊本部・中隊(250名、軽機関銃6・重擲弾筒6)×5・銃砲隊(110名、馬10頭、重機関銃2、大隊砲2)×1
独立警備作業隊は235名で軽機関銃1・重擲弾筒1
なお、大隊本部に通信班があります(12名、電話機20、五号無線機8)
現地部隊から差し出された人員で編成されたため、人員や装備の充足は悪かった模様。
たとえば、第3独立警備隊は編成完結時(3月30日)将校50%、下士官兵65%
河北省ということなら、第3、第5、第6、第7、第10、第13、第14あたりなか?
部隊名、通称号、終戦時所属、終戦地、編成の順
第1独立警備隊(矢石)第13軍 南京 司令部・独立警備歩兵第1~第6大隊・第1独立警備作業隊
第2独立警備隊(至威)第20軍 長沙 司令部・独立警備歩兵第7~第12大隊・第2独立警備作業隊
第3独立警備隊(伸張)北支那方面軍 北京 司令部・独立警備歩兵第13~第18大隊・第3独立警備作業隊
第4独立警備隊(至誠)駐蒙軍 大同 司令部・独立警備歩兵第19~第24大隊・第4独立警備作業隊
第5独立警備隊(至隆)第1軍 運城 司令部・独立警備歩兵第25~第30大隊・第5独立警備作業隊
第6独立警備隊(至毅)第12軍 新郷 司令部・独立警備歩兵第31~第36大隊・第6独立警備作業隊
第7独立警備隊(至武)北支那方面軍 保定 司令部・独立警備歩兵第37~第42大隊・第7独立警備作業隊
第9独立警備隊(至剛)第43軍 済南 司令部・独立警備歩兵第43~第48大隊・第9独立警備作業隊
第10独立警備隊(至敏)第12軍 鄭州 司令部・独立警備歩兵第50~第54大隊・第10独立警備作業隊
第11独立警備隊(至鋭)第43軍 兌州 司令部・独立警備歩兵第55~第60大隊・第11独立警備作業隊
第12独立警備隊(至厳)第43軍 青島 司令部・独立警備歩兵第61~第66大隊・第12独立警備作業隊
第13独立警備隊(疾風)第12軍 鄧城 司令部・独立警備歩兵第67~第72大隊・第13独立警備作業隊
第14独立警備隊(紫電)第12軍 *州 司令部・独立警備歩兵第73~第78大隊・第14独立警備作業隊
ガダルカナルに投入された「独立工兵第六連隊」の詳細を知っている人はいますか?
独立工兵第6聯隊は昭和12年7月27日に広島で編成された「乙工兵」(船舶工兵)で
工兵第6聯隊とは別の部隊。
大発などの舟艇を装備し、舟艇機動部隊の輸送を担当。
ちなみに舟艇機動部隊に所属する独立工兵第28聯隊の1中隊(2小隊欠)も同じ。
ただし、駆逐艦乗船部隊の独立工兵第15聯隊は「甲工兵」だから普通の野戦工兵。
宮崎繁三郎って具体的にどのあたりがすごいの?
簡単にいえば、情に厚い上に戦では決して負けない指揮官だったことだと思います。
「不敗の名将」という言葉が彼には付いて回ります。
かのノモンハンで第十六連隊を率いてソ連軍を相手に一歩も引かずにこれを撃退、
おそらく唯一と言っていい歩兵部隊での勝利を収めたこと、
また、ビルマでの牟田口軍司令官の無謀な作戦とそれに対する第三十一師団の
佐藤中将の抗命など混乱しきった最前線で長期戦の持久戦を戦い抜き
後退の際も兵の損失を最小限に抑えるなど常に「負けない戦争」を戦ったからです。
その作戦は周到で理詰めであり、なおかつ大胆で果敢な突撃を躊躇うことはありませんでした。
また、彼は仁慈に厚く、部下に対して常に情をもって接したことや上官の批判を
決して行わないなど万人に慕われる人間でした。
「参謀、敵中突破で、分離した部隊を間違いなく掌握したか?」
これが死を目前にした宮崎繁三郎の最後の言葉でした。この一言に彼の人間性が
現われていると思います。
(572:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
明治時代の陸軍兵士の背嚢にはどんなものが入っているんですか?
主に着替え用の下着・軍足・雨具・テント。
冬場は防寒衣料が追加される。携帯口糧の乾パンなど。
当時はフランス軍が軍事顧問なので影響してるね。
大日本絵画・中西立太先生の日本軍の軍装などが参考資料
として充実してます。
(336:一等自営業 ◆JYO8gZHKO.)
陸軍が機械化を推し進めなかった理由は?
仮想敵国がアメリカで仮想戦場が島嶼であれば理解できるのですが、広い荒野の中国や
ソビエトを仮想戦場と考えていた陸軍が機械化を推し進めなかった理由が検討つきません
ここで、アメリカ独立戦争が行われましたか?
まずもって、機械化陸軍作りたくてもそんな金がどこにも無い、というのがある。
日本の軍事予算はみんな海軍が持っていってたので、と言われるが、それ以上に
頭数の多い陸軍は全員に銃を持たせて訓練して飯食わせるだけで膨大な予算を
必要とするので、日本のように列強の中では一番経済規模の低い国ではどうしようも
なかった。
構想はされているんだけどもね>機械化陸軍
それと、日中戦争の推移や「関東軍特別演習」だけ見てると誤解するが、基本的に
日本の大陸での戦略は「権益防護」「国境(勢力圏)線守備」の、守りのドクトリン
だから、「侵攻」を念頭に置いた兵力の機械化整備は考えられていない。
そういう意味では本来の任務とは全然別の戦争を陸軍は大陸でしていたと言える。
関東軍の司令部は東京にあったんでしょうか?
野中広務がそう言ってましたが
満鉄警備が目的の守備隊として発足、このときの司令部は旅順。
その後、新京(満州国首都)へ移転という流れ。
そもそも満鉄警備のための守備隊が前身なので、東京に司令部を
置く意味が無い。
かつて、帝国陸軍には普通の歩兵連隊とは別に機動連隊というものが3つありましたが、この連隊はどのような兵器や車両を装備をしていて、どのように運用されたのでしょうか?
機動連隊はコマンド部隊。
ソ連領内に密かに潜入して、司令部や鉄道などの重要施設を襲撃する目的のもの。
武装は一般歩兵用の軽火器とほぼ同じ。
短機関銃や爆薬なんかも持ってたようだ。
重装備はほとんどなく、迫撃砲若干程度。
移動手段も徒歩。迫撃砲や重機関銃は駄馬で運んだようだ。
特殊な機材として、経空侵入用の小型気球も研究されてたという。
光人社NF文庫から、「関東軍特殊部隊 闇に屠られた対ソ精鋭部隊」という本が出てるから、
詳細はそれを買って読むとよろしいかと。
なお、名前は似ているが、「機動歩兵連隊」「機動砲兵連隊」というのは別物。
こっちは戦車師団隷下の機械化歩兵部隊と機械化砲兵部隊のこと。
帝国陸軍の機動歩兵連隊とはどのようなものだったの?
これは失礼。機動歩兵連隊は、戦車随伴歩兵として活動する機械化歩兵です。
各戦車師団に1個連隊ずつありました。ただし、戦車第4師団にはありません。
装備は基本的に一般の歩兵部隊と同じです。
ただし、対戦車砲として、一般歩兵の37mm速射砲より強力な、47mm速射砲を多数持っていました。
移動手段としては、装軌式・半装軌式の装甲兵車に全員乗車する計画でしたが、
実際には装甲兵車の生産が間に合わず、自動貨車(トラック)で代用していたようです。
若干の戦車・装甲車も持っていました。
戦車第1師団の機動歩兵第1連隊の定数として装軌車両222両、装輪車両87両と言います。
実際の終戦直前の機動歩兵第1連隊では、
装甲兵車39両、装軌貨車3両、自動貨車21両、軽装甲車15両、乗用車8両、指揮車1両。
大戦後期の機動歩兵第3連隊(戦車第3師団)では、
自動貨車250両以上と軽戦車10両、装甲兵車2両。
機動歩兵第2連隊(戦車第2師団)は、フィリピン進出時に車両の大半を残置し、
兵員の1/3が乗車、1/3が戦車に跨乗(タンクデサント)、1/3が徒歩。
帝国陸軍の戦車や装甲車には、いつごろから無線が搭載されるようになったのでしょうか?
装甲車両用の車載無線機は、昭和8年(1933年)頃に本格的研究が始まり、
九四式四号乙無線機として最初に制式化されました。
九二式重装甲車に搭載されたようです。
同じころに開発された九四式四号丙無線機は、八九式中戦車などに搭載されました。
いずれも車体レイアウトができてしまった後に、無理やり詰め込めるように設計したもので、
性能的にはあまり良くなかったようです。
その後、九五式装甲軌道車用に九六式二号戊無線機、
装甲作業機・九七式中戦車用に九六式四号戊無線機などが制式。
これらは九四式四号丙に空間的余裕を持たせて再設計したもの。
アンテナの形状も例の鉢巻きアンテナなど試行錯誤されてた様です。
指揮戦車用の高性能通信機としては、三式車両無線機甲がありました。
詳しくは「日本無線史」(電波監理委員会、1951年)の9巻をご覧ください。
師団制毒隊について、教えて下さい。
制毒隊とは、旧陸軍の化学戦部隊のようですが、主に防疫の為の部隊なんでしょうか。
化学兵器で敵を攻撃する能力はあったのでしょうか。
制毒隊は化学戦について、攻防両方の機能を一応は備えています。
攻撃面では、マスタードガスを背負い式の噴霧器や装甲車牽引式の撒布車両で撒き、
嘔吐剤を発煙筒式の発生装置で展張するほか、一般戦闘支援用の煙幕も運用します。
化学砲弾を飛ばすような火砲までは持っていません。
防衛面では、化学汚染地帯の突破用に、汚染を中和する晒し粉の撒布をする(制毒)ほか、
化学剤が付着した衣服などの洗浄(除毒)能力も持っていました。
ただ、充実した方でも200名強、小さくは80名程度の人員しかなく、作戦能力はささやかなもの。
一部師団では制毒隊ではなく制毒訓練所というのを持ってますが、これはもっと小規模なもの。
なお、「防疫」は化学戦ではなく生物戦の領域で、
担当するのは制毒隊ではなく、防疫給水部などになります。飲用水の殺菌とか。
去年復刻版が出たグランドパワー別冊「日本陸軍の特種部隊」が、化学戦部隊についてまとまってます。
日本陸軍の師団司令部の構成について、
師団長の補佐、秘書のようなことをする役職は副師団長と幕僚長のどちらなのでしょうか。
また、師団長と幕僚長では職務内容はどう違うのか、
階級が同じであった場合副師団長と幕僚長ではどちらが偉いのか、教えていただきたいです。
日本陸軍の師団本部の構成は、師団長の下に、
参謀の肩書きを持つ士官が3名(大佐、中ないし少佐、大尉)。
副官の肩書きを持つ士官が4名(少佐、大尉、中ないし少尉2名)。
参謀や副官のサポートを行う曹長ないし軍曹が9名。
計官が3名(主計官=中ないし少尉1名、曹長ないし軍曹2名)
副師団長という肩書きはない。
師団長に何らかの支障があれば、師団隷下の最先任の旅団長(少将)が代理することになる。
参謀の中の大佐が、参謀長=あんたの言う幕僚長ということになるが、あくまでも参謀。
師団長の役割が意思決定して命令を下すことにあるとすれば、
参謀の役割は、師団長の軍事に関する意思決定のサポートをすることにある。
つまりは作戦計画や補給計画の案を作たり、師団内の各部署と調整し、その執行を円滑にすることにある。
一方で、師団長の秘書的な事務的なサポートをこなすことが副官の役割になる。
で、雑用やら小間使いやらは、彼ら士官の指示によって、曹たちがこなす。
ついでに、計官というのは師団の経理をやってる人たち。
日本軍の機械化師団は、どのような輸送車両を使っていたのでしょうか?
国産車と外車がごっちゃになっていたりしたのですか?
主に馬匹(ry。
という冗談はさておき、国産車(豊田、日産、いすゞ(スミダ、ちよだ))と、外国車(組立シボレーと組立フォードが主)
の両方が使われています。
とりあえず、数的には初期は外国車が多く、後に国産車が多くなってきますが、外国車を宛がわれた兵士は、
それがどんなに古いものでも喜んで受け取り、国産車が宛がわれた兵士は、水杯を交わしたくらいだったりします。
ちなみに、それらの車両の中で一番嫌われたのは、日産80型トラックでした。
(321:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
なんで旧陸軍には兵種に獣医科があるの?
旧軍の資料はなくても申し訳ないけど、ドイツ軍の歩兵師団で5000頭強の馬がいました。
旧軍も6000頭程度だったかと。
日本陸軍では、獣医部は、軍馬病毒の予防、傷病馬の治療など馬事衛生に関することを
所掌するのが主な業務で、また、食用獣の検査と蹄鉄に関する部分を取り扱います。
1930年代には日本に馬が150万頭おり、そのうち、労役に耐えうる6~17歳までの馬は、雄60万、
雌40万頭です。
平時で陸軍全体の馬匹は36000頭ですが、戦時には70~80万頭の馬を管理しなければならなく
なります。
ちなみに、陸軍の軍馬については民間から購入する場合、購入価格は400~500円程度になります。
兵士の人件費よりは高く、維持費が年間1000円程度になりますので、大切にされることが多かった
訳です。
(320:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
旧日本陸軍が、師団の上の部隊単位の名称に「軍団」ではなく、「軍」の名称をつけたのは何故でしょうか?
明治維新後、日本陸軍を編成した際に軍と師団の間に軍団を設ける必要性も師団の数も無かったから。
軍団は普通は常設部隊だってのが分からんと、意味が通らんかも知らんな。
軍団を作らなきゃ成らんほど、平時編制の師団数が無いって話
もともと軍団という部隊単位を創設したのは、仏大陸軍であり、ナポレオンのアイディア。
師団という編成単位が一般化し、国民皆兵の徴兵制の導入によって師団数が急増。
野戦軍(軍)の下に師団が直結する編成方式だと、軍司令官の指揮統制能力を超える
部隊単位が軍の下にアタッチされることになることになる。
伝統的な組織理論だと、一般的に1人の上司が3~5人の部下になるように
組織を分節化して編成するのが良いとされるが、そういった経験則に基づいた処置だよね。
しかしながら、常設師団数が少なく、軍司令官が統率しなければならない師団級部隊の数が少なければ、
敢えて軍と師団の間の中間的な組織は必要はない。
陸軍で連合艦隊司令長官に相当する役職は何ですか?
ない。
日本陸軍における最大の単位は総軍だが、
人数的な面は総軍のほうが大きいが、ほぼ日本海軍全部といっていい連合艦隊と比べると
総軍でも陸軍の一部。
書籍スレで石原莞爾が基地外呼ばわりされていたのですが、どうしてでしょうか?
石原莞爾が「独断先行」で満州国を作り上げたことは知っているよな?
そのせいで日本陸軍では「独断先行」が常套手段になっちゃって、マトモな
軍隊ではなくなっていったわけだが、石原莞爾は現役を引退した(させられた)
後、どんどん中国大陸で無制限に戦線を拡大する現地司令部を批判した。
それに対して、「あんたと同じことをやっているだけだろう?」と反論されて、
石原は絶句したとか。
つまり彼は自分がやったことがどう言う影響を及ぼすのかを全く解ってなかった
わけで、批判されてしかるべき人間。
石原莞爾は日蓮宗に傾倒していて、その影響が彼の行動、著作に如実に現れているから。
日蓮宗は終末思想バリバリの宗派。これを現実に反映させようとした時点で基地外と言われても仕方ない。
大東亜戦争中の海軍のラジオ放送は、バックで流れる音楽が『軍艦行進曲』ならいいニュース、『海行かば』なら悪いニュースとなっていたそうですが、陸軍はそういうのなかったの?
陸軍の場合は、「抜刀隊」がそれに当たります。
但し、広報については海軍ほど洗練されていませんでしたので、それ一辺倒だった様です。
(308:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
日本陸軍は何故、独自に空母や潜水艦をつくったのですか?
そんなに海軍が信用できなかったのでしょうか。
信用がないと言うか、必要に迫られた訳です。
そもそも、日本海軍は、艦隊決戦に特化した歪な艦隊(上まぁこれは言い過ぎかも知れないが)なので、
陸軍が必要とする揚陸支援とか、そう言ったものに本腰を入れてくれません。
また、部隊の輸送についても、海軍輸送船の護衛が中心で、陸軍は余り考慮されていません。
従って、陸軍と雖も、戦闘機を搭載した揚陸支援用の空母が必要となりますし、物資を安全に前線まで
運搬する輸送用潜水艦が必要になった訳で。
(306:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
日本は陸上兵器(特に戦車)の運用思想が遅れてましたが、やはり島国だから陸で戦うことはあまり重要視してないんでしょうか?
戦車の運用に関しては、1931年の満州事変勃発以降中国大陸で本格的な戦車の
実戦使用を経ており、さらには1934年に独立混成第一旅団が編制されるなど、
機械化部隊の運用としてはむしろドイツやソ連より早いくらいです。
問題であったのは、わが国の乏しい開発力と工業力では機械化部隊を維持発展させることが
出来なかったことです。
独立混成第一旅団は1937年11月に解隊されますが、その理由として
- 攻撃力の不足
- 燃料弾薬の補給が大量に必要
などが上げられています。これは裏返せばわが国の乏しい開発力と工業力を如実にあらわしています。
さらに1939年のノモンハン事件で出動した第一戦車団が大量の損害を出して、戦車による
対戦車戦闘の重要性がクローズアップされたにもかかわらずその戦訓を隠蔽してしまい、
高価である戦車の改良や大量生産は後回しにされてしまいました。
(302:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
太平洋戦争時の日本陸軍兵士の数はどれくらいですか?
太平洋戦争勃発時の動員兵力は全体で60個師団220万人(糧食250万人分)、このうち南方作戦に投入したのは、
僅か13個師団30万人(糧食40万人分)。
残りは、満州に24個師団120万人、中国に30個師団65万人に張り付いていた。
以降は以下の通り。
内地 中国 満州 南方
1942年度末 50万人 68万人 70万人 50万人
1943年度末 70万人 68万人 60万人 92万人
1944年度末 121万人 80万人 46万人 163万人
1945年度末 278万人 120万人 78万人 164万人
(110:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
日本軍の戦術で優れていた部分はありますか?
日本軍はソビエトの準備砲撃の後の浸透戦術において、逆に戦訓を与える程の
自動火器による支援射撃の下敵陣に浸透する戦術に優れていました。
(662:三等自営業 ◆LiXVy0DO8s)
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